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中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2013年7月3日

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動⑤

■復興と式年遷宮
この日の朝、私は、仮設住宅からおだやかな海を眺めた。
岬の先から差し昇る朝日を受けて、漁師達が、黙々と漁に勤しむ姿が見えた。静かさの中に澄み切った充実感が満ちていた。
いかに震災にうちひしがれても、こつこつと努力を重ねる漁師たちに、
海はふたたび恵みをもたらしてくれる。
まぶしく降り注ぐ朝日に照らされ、かつての美しい雄勝の様がふっと浮かんできた。
屋号の上に、ひるがえる「日の丸」は、天上界の神、天照大御神であると、末永氏は、憧れをこめて教えて下さった。

「天岩戸開き」の神話は、どんなに暗闇にあろうとも、みなの幸せを願い、分を尽くし、助け合っていけば、ふたたび希望という光が蘇ることを教えている。
折々に「岩戸開き」を演じてきた神楽師にとって、神話の物語は、心にくっきり刻まれているに違いない。
そして、それは、折々によみがえり励みとなり智恵となって、浜の人々を導いているのではないかと思う。
今回の体験を通じて、便利で、裕福でありながら、無機的に日々を過ごしがちな都会の生活と、
不便でも、自然に育まれ、神の声に耳を澄ましながら生きる人々のどちらが満ち足りた幸福感を味わっているのだろうかと、改めて問い直している。
二者択一はできないものの、村田参事が、震災を通じて学ぶべきは、本質においては、文明と自然の折り合いをどのようにつけていくかである、
とのご指摘が思い返される。
厳しくも恵み豊かな自然の中で、神楽を通して神々の声に耳を澄ましつつ、たくましく生き抜く雄勝の人々に、私達が支援どころか、逆に多くの気付きを与えて頂いている。
  
■体験を誓いにして
逆境をはねのけ再び復活す雄勝の漁師我は忘れじ 
私自身本当に変わり成長し私の生涯この場と共に

参加した高校生らは、様々な形で、自らの生き方を見つめ問い直した。
多くの小学生を失った大川小学校で黙祷を捧げ、ある学生は、
「これからの被災地の復興へ向けて何かしらの貢献をしていくことが、彼らの無念を晴らすことになり、残された人々を明るくすることが出来ると信じてこれからも頑張っていきたいです」
と述べ、ある学生は、入学した大学で、東北の震災を風化させないために語っていきたいと誓いを固めた。

それぞれの体験に共通するものは、どんなに困難にあっても前を向いて生きようとしている人々の美しさであった。
小さな仮設住宅に、三人も女性を泊めて下さったり、浜から取り立てのホタテや牡蠣をご馳走して下さった青木さん。

いつか家を建てたあかつきには、清水の湧く家の一部屋を十名ほど泊まれる大部屋にして、皆さんの憩いの場にしてもらいたいと、夢を語られた。
これから様々な課題を乗り越えていかなければならない。
そのとき、私達は、皇太子殿下のお言葉のように心を一つにして支えていける者でありたい。
そして、雄勝の人々に気付かせていただいた大切な生き方を、これからの日本に伝え、体現していける自分たちになりたいと心から誓っていった。

おわり

written by 清家和弥

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2013年6月26日

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動④

■復興の原動力となった祭り、神楽の復活
それにしても、漁は、海の状態いかんによって
危険性と隣り合わせとなる「いのちがけ」の営みである。
海は豊かな恵みを与えてくれるが、時に脅威にもなる。
それゆえ、浜の人達は、祈りの場を大事にしてきた。
震災により、自然の猛威にうちのめされ再建は難しいとも思ったが、
自分を育ててくれたわがふるさとだという意識は離れなかった。
しばらくは意気消沈したが、やがて、漁師達は、海に向き合い、
険しくとも再建への道を選んだ。その上で、励みとなったのが、
全国の支援であった。とりわけ、民間有志の東日本救援隊は、
頻繁に足を運び共に歩んできた。
 そして、祈りの場である地域の祭りが、昨年五月四日ようやく復活した。
その時の様子は、映画「雄勝―法印神楽の復興」(日本ユネスコ協会連盟、監督 手塚 眞)に収録されいる。
離散していた若い家族もこの日ばかりは、ふるさとに戻ってきて、
たくさんの人が集まって、にぎにぎしく祭りが催された。
救援隊の若手が担ぐ北野天満宮の御輿が浜を練り歩き、
手作りの出店もあり、子供達もはしゃぎ楽しんだ。
祭りのメイン行事が、奉納される神楽であることはいうまでもない。
浜辺に作られた舞台の上で、次々に、力強くも心あたたまる神楽が行われ、
浜の人々は魅了され、心を一つにしていった。
子供達は舞台袖からじっと舞いを見つめて離れようとしなかった。
祖先より受け継がれた祭り――人と自然と神々がともに生きる
美しい浜の伝統がよみがえった。
立浜養殖組合長の末永千一郎さんは、膝を痛めながら、舞台に立ち、
最後までご自身の神楽を舞いきった。
終了後、息を切らしながら、この祭りにより復興が勢いづけばと
手応えを語った。
 
■神々とともに生きる
二日目の午後、私達は、末永千一郎氏宅を訪れた。

(写真左端が末永氏)
改めて震災直後から神楽復活への経緯や思いなど感慨深いお話しをして下さった。
友の会「呉竹」のメンバーは、
「神楽を復興することに対しての強い思いがよく伝わってきました。ビデオで見ていると、ケガをしておられたにもかかわらず、神楽を奉納されているのが印象に残っていて、祭りが復活したのが、よほど嬉しかったのだろうと思いました」
「神楽の話を聞き、被災地の大変な状況下で、伝統を守る大変さや苦労、祭りが持つ大きな力というものを感じました」
「僕のふるさと西宮と雄勝町は神様を大切にしているという共通点があることを発見しました」
等の感想を述べた。いずれも、祭りがもつ力を実感し、
また、自分を形成してきた幼少期の体験の中に同じものがあることを再発見している。
末永氏に、思い切って、神楽のセリフをお聞かせ下さいとお願いした。
すると分厚い台詞を取り出してきて、二十八もある演目を紹介され、
場面場面を軽やかな口調で語り始めた。
しだいに熱がこもり、私達は、神々の物語に引き込まれていった。
中でも天岩戸開き、スサノオの物語は圧巻である。
ご存知のとおり、スサノオノミコトは高天原で大暴れしたあげく
追放されてしまう。償いの旅に疲れ果てたミコトは、
裕福そうな明るい家がみえたため、戸をたたいて一夜の宿を求めたが
断られてしまう。無念な思いでさまよい歩くと今度は、薄暗く、
貧しそうな民家があった。ミコトは、戸をたたき一夜の宿を求めると、
家主は、あたたかくむかえいれ、粟の食事と粟殻の布団でもてなしたという。その家主を蘇民という。
ミコトは、蘇民の情け深さに心を打たれ、その時、心から人の道を悟った。
その思いはやがて娘を救うため八岐大蛇退治という勇敢な行為につながり、
やがて幸せな家庭を築くに至る。
末永氏は、神話は、人の道、教えであるとし、若い時は、
時として行きすぎた行為や過ちを犯すこともあるが、
一をみて百を断じてはいけない、信じて向き合い待つことが大切だと語られた。
仮設住宅や家々の玄関に「蘇民将来子孫門戸」という紙の札を掲げているのを、
私達は不思議に見ていたが、実は、この伝承の蘇民の子孫という心構えをもって、
訪れた人をあたたかく迎え入れるためだそうである。
「雄勝の人々にとって、神話の物語は生活の中に息づいているのですね」
との質問に対し、末永氏は、額に飾った船の写真を見上げ、
上から二番目が持ち主の屋号の旗で、その上が日の丸、
そして、船の中には、必ず、船魂という神様が祭られていると教えて下さった。
漁師にとって、漁は神とともに為され、神のご加護のもと営まれているということであろう。

つづく
written by 清家和弥

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2013年6月13日

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動③

■ワカメの収穫を通じて人々とふれあう
 私達は、午前中は、ワカメの収穫作業に携わった。

 

 

 

 

 

 
また、特別に、ブイに持ち主の屋号を入れる作業も行わせて頂いた。

 

 

 

 

 

 
三月はワカメの収穫で忙しい。
漁師たちは、三時、四時には海に出て、早朝には水揚げする。
収穫した大量のワカメは、次々にボイルで茹でられ、塩でもみ、
しん抜きをして、封詰めを行う。
高校生は
「漁師の方がカゴを軽々持ち上げていたので、私も持てるかな、と思ったけど、予想以上に重くて驚きました。…こんなにも大変な重労働を毎日されているのだと思い、漁師の方々のおかげでワカメが食べられていることに感謝しなければならないと思った」
「あるご一家のワカメ漁の手伝いをさせて頂きました。ご一家は親戚など一族総出で漁をしていました。ご一家の家庭の温かさを感じました」
と感想を述べた。

 

このように漁は大変な重労働であるが、それゆえに、浜の人々は家族のように協力しあう。
とりわけ、震災後は、結束力が強まったという。
震災後、学校が閉鎖し、雄勝を離れた子や孫達が手伝いに駆けつけているのも嬉しいことだったという。
厳しい自然に向き合い生きることは苦労もあるが、やりがい、一体感がある。
若い人が漁の良さを見つけ、いつか浜に戻ってくることを浜の人々は願っている。

つづく

written by 清家和弥

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2013年5月24日

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動②

■震災と神社の果たす役割
東北入りした私達は、はじめに、「震災と神社の果たす役割」について学ぶため、
宮城県神社庁を訪れ、村田守広参事にお話を伺った。
宮城県は、百三十一社の神社が流失、全壊、半壊し、
また、神社を支える地域の人々も被災しているため、
それらの神社の多くは、再建の目途が立っていない。そのような中で、
神社本庁の支援を基軸に、支援者をつなぎ、すみやかな再建に尽力されたのが村田参事である。
ありがたくも、伊勢神宮よりご用材が無償で提供されることになり、
これまで九棟の神社が再建されている。
村田参事には、そのことも含めて三点についてお話し頂いた。
一つは、伊勢神宮のご用材を用い、お伊勢さんの神威を頂いて神社が再建されたことの意義の大きさである。
二つ目は、神社は、地域の心の拠り所であり、コミュニティーの核であり、
何よりも神社の再建が人々の元気につながることである。
三つめは、想定外という言葉が多く語られたが、そもそも自然は人智を超えた存在であり、
自然への畏敬の念が薄れたことが問題であること。
文明と自然のバランスをどのようにつけて行くのかを、
今回の震災を通じて考えなければならないということである。
村田参事の話を聞いて高校生は
「神社の存在が、地域のコミュニティの中でとても重要な役割を果たしていたんだと思いました。
町を復興していく中で、心の拠り所となる祈りの場があるということは
被災者の方々にとってどれほど支えになっただろうと思います」と感想を述べた。
 
■お伊勢さんの力を頂いだいた新山神社
午後、私達は、石巻市街地を視察し、雄勝町に移動、中心部にある新山神社を訪れた。
実は、伊勢神宮のご用材を使って再建された神社の第一号が、この新山神社であった。

訪れた雄勝地区は、雄勝湾の一番奥に位置する浜の町で、
津波によって流され一面更地と化した。その中に、規模は小さくとも、
檜の香も香しく若々しい輝きを帯びた新山神社は再建された。
「こんな立派なものができるとは」と涙ぐむ人もいた。
何しろ、伊勢神宮のご神域から切り出した木材を使うので、地元の人は大変よろこんだそうだ。
竣工奉告祭では、神楽も奉納され、三百名の人々が集まり、再会を喜びあった。
ご尽力された小田宮司は、お伊勢さんの力を頂いて、地域がよみがえることが、
何よりも嬉しく、やりがいも湧いてきたと語られた。
村田参事は、神社再建に、伊勢神宮のご用材が使われ、
大神のご神威をいただくことの意義深さについて繰り返し述べられたが、
二十年に一度の式年遷宮の年、東北の真の復興は、
日本のいのちのよみがえりの中になされていくことを強く信じておられることを改めて感じた。

次回に続く

(written by 清家和弥)

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2013年5月16日

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動①

復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動
―復興の原動力となった
「雄勝法印神楽」―

 
 皇后陛下御歌 復興(平成二十四年)

今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に

この御歌は、地震と津波により失われた人命、家、周囲の自然等、
その全てを面影として心に抱きつつ、
今一度復興に向け立ち上がろうとしている北国の人々に
思いを寄せてお詠みになったものである。 

去る三月二十九~三十一日、二度目の支援活動として訪れた
宮城県石巻市雄勝町は、まさに御歌に詠まれた、困難に直面しつつも、
たちあがりゆく村の一つである。
そして、その復興の原動力となったのが、神社、祭りの再興であり、
雄勝法印神楽の復活であった。
私たち高校生友の会呉竹は、ワカメの収穫作業の支援とともに、
復興を支える神楽の心とはどのようなものか、自らの目で見て感じ、
その中で、復興支援のあり方を見つめていきたいと考え、
高校生ら九名で雄勝立浜地区を訪れた。

雄勝町法印神楽は、六百年の昔、羽黒修験者によりこの地にもたらされ、
現在、国の無形文化財として浜の人々に受け継がれている。
二十八の演目からなる古事記、日本書紀の国生み神話等の物語の中から、
いくつかを選び、村の神楽師たちによって舞台が演じられる。
優美にして勇壮、激しい戦いの場面もあれば、
その年に生まれた赤子を抱き、舞う場面もある。
時には、観客が引きつられて舞台にあがり、神々と舞い踊る場面もある。
見る人も演じる人も一つに溶け込んで、土地とともに生きる喜びを共にし、
人々の絆をむすんでいくのが雄勝法印神楽と言えるだろう。

しかし、東日本大震災は、すべてを流し去ってしまった。
養殖場も家々も根こそぎ流され、神楽のお面や装束など一切の用具が
流された。四千三百人いた人口は千五百人まで減少し、
町の復興は目途が立たず、生活は元に戻らない。
それでも人々は、神楽や祭りの復活を望んだ。
全国からの支援もあり、十年は復活できない思われていた神楽が、
半年後、鎌倉宮での復興支援公演として蘇った。
 
■皇太子同妃両殿下 雄勝法印神楽をご鑑賞
さて、「雄勝法印神楽」は、今年二月、国立劇場で復興支援の公演が行われ、
皇太子同妃両殿下には行啓遊ばされ、三時間にわたる公演を
ご観賞になられた。私は偶然にもこの舞台を鑑賞する光栄に巡り合わせ、
「山幸、海幸」など皇室の遠つ御親の生命力あふれる舞台に感銘を深くし、
次代の子供たちにぜひとも伝えていきたいと思った次第である。
皇太子殿下は、公演後、四、五十分にわたり、一人一人に労いと励ましの
お言葉をかけられ、保存会の方々は、思いもよらぬお心遣いに
感激したそうだ。
皇太子殿下は、その時のお気持ちをお誕生日のご会見で述べられている。

「六百年の歴史を誇り、地域の人々の心のよりどころとなっている伝統芸能を守り、活動していこうとする保存会の人々のすばらしい公演を鑑賞し、震災に立ち向かいながら、伝統を守り続けるひたむきな姿に心を打たれました。引き続き、東北の方々の復興に向けた取組を国民が心を一つにして支えていくことが大切です」

東北の方々のひたむきな姿に心を打たれ、
国民と心一つに支えていこうとされる思いが、
一人一人への心こもるお言葉がけにつながったのではないかと拝察された。
私達は、殿下のお言葉を胸に、手作りの御製のしおりを携えて雄勝を訪れた。

次回へ続く
(written by 清家和弥)

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年11月3日

10代を生きる君たちへ~日本の国の素晴らしさを知っていますか~

十代の皆さんへ ~あなたは日本の国の素晴しさを知っていますか

イギリスのBBCという国営放送局が、世界の22ヶ国と毎年共同で行っている世論調査があります。
その一番新しいデータによれば(2011~2012)、世界に対して最も良い影響を与えている国は日本だ、
という結果が出ているそうです。
つまり、日本は世界中から最も高い評価を得ている国の一つなのです。
でも、皆さんはそうしたデータを示されても、なかなか実感がわかないかもしれませんね。
別のデータ(2007年のユニセフ調査)によれば、「自分は孤独だ」と感じている子供の割合が、
日本は他の国と比較して非常に多いことが判明しています。
この調査は15歳の少年を対象としたものですが、「自分は孤独だ」と感じている日本の子供は、
29.8%にも達していました。ほぼ3人に1人の割合です。
これは「先進国」24カ国を対象とした調査ですが、日本以外の他の国の割合は、
軒並み10%以下でした。例えばオランダでは、「自分は孤独だ」と感じている少年は2.9%しかいませんでした。
日本の十分の一です。「自分は孤独だ」と感じている少年が、日本はオランダの10倍もいるということです。
また、財団法人日本青少年研究所などが日本・米国・中国・韓国の4ヵ国の高校生を対象に
実施した調査によれば、「自分は価値のある人間だ」と思う生徒は、
米国や中国では90%近くにも達していました。
韓国でも80%近かったのに対し、日本だけが40%にも満たないという散々な結果でした。
どうも日本の子供たちは、自分にあまり自信が持てないでいるようです。
しかし、私はそんなに悲観する必要はないと思います。
君たち十代の若者が自信を持てないでいるのは、
自分という存在が何かとしっかりつながっているという感覚が、
なかなか持てないからではないでしょうか。
家族とのつながり、友達とのつながり、確かにそうした絆を強固に持っている人は、
自信に満ちあふれた人だということが出来るでしょう。ただ、それだけではないのです。
あなたの生れた国は、どういう歴史を持った国ですか。あなたはそれを、他国の人に語れますか。
日本の国は、世界中の人が憧れるような、そんな素晴しい国なのです。
それをあなたが知ったとき、それをあなたが勉強したとき、もうあなたは一人ではありません。
あなたの誇りは、あなたの家族であり、あなたの友達であるように、
いやそれ以上に、あなたの生れた国なのです。
日本人であるあなた自身が日本の国の素晴しさを知るということ、
語れるようになるということ、それが本当の意味で自分に自信を持つということなのです。
日本の国に生れたあなたは、それだけで素晴しい財産を持っているのです。

written by 明星大学戦後教育史研究センター 勝岡寛次

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年7月30日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ④~

松陰が野山獄で講義した内容は、中国の古典で有名な孟子についてです。
孟子は性善説を説いたのですが、松陰はこの獄中にいる人々も
みな生まれ乍らにして善であることを熱をこめて話しました。
そして野山獄の罪人だけでなく、監視人さえもが、松陰の講義に感動し、
いつしか「松陰先生」と呼ぶように変わっていったのです。
野山獄での講義は一年あまり続き、その後、獄からだされてからも、
松下村塾において続けられていきました。塾にあっては、塾生だけではなく、
松陰の父も母も兄弟もみなで聞くようになっていました。
このときの講義の内容は講孟剳記としてまとめられています。

凡(およ)そ生まれて人たらば、よろしく人の
禽獣(きんじゅう)に異なる所以(ゆえん)を知るべし

これは「士規七則」の一節で、松陰のいとこである玉木彦介のために書いたものです。
彦介はいとこではありますが、松陰の生徒として松下村塾で学んでいたのです。
意味するところは、人間としてこの世に生を受けたのではあれば、
人間が他の動物と違う理由を知らなければいけないということです。
当然といえば当然のことなのに、なぜこういう事を彦介に言ったのでしょうか。
それは若い学徒は、ややもすれば日常の生活に流されがちになったり、
学問が疎かになる可能性があることをいったのではないでしょうか。

かなり厳しい言葉ですが、これも松陰が獄中から送ったものです。
自分の身が不自由であっても、塾生を励ますためには、労苦を惜しまず、
全力で若き学徒に対しています。松陰にとって、妥協という文字はないようです。

もし松陰が今の世に生きていたら、若者たちをみてどう思うでしょうか。
染めた髪、流行の服装、言葉遣いの乱暴さ、これを自分たちの個性と主張する若者たち。
小学生、中学生による事件の増加。きりがないほど頻発する事件の山。
自分勝手やエゴイズムの氾濫。若者は大人の鏡とすれば、
大人の世界がしっかりしていないからだと考えることはできます。
それにしても、人間の住む世の中には見えないのではないでしょうか。

見える時代は絶望であっても、それでも、松陰は若者に言い続けるでしょう。
君たちこそ、これからの時代の主役だと。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(留魂録)

松陰は松下村塾で教えるだけでなく、国内を遊学している塾生に対して、
幾度となく手紙を書いています。その内容は、次第に、
国家のあり方におよぶようになっていきました。
しかしこれが、幕府の知るところとなり、再び危険人物として捕らえられ、
江戸送りになってしまいました。江戸に送られるということは、
生きて再び萩に戻ることはないということです。
松陰は、いよいよ最後のときがきたかと覚悟をきめつつも、
それでも愛する日本のためには、最後までまごころをもって幕府を説得し、
目覚めさせなければならないと考えていました。驚くべき信念です。

明日が江戸へ向けて出発という前夜、特別のはからいで家に帰ることができました。
父も母も、江戸への出発がどんな意味をもっているか知っています。
それでも家族中で、松陰を励まし、翌朝送りだしたのです。
江戸に着くと、すぐに取り調べが始まりました。
そこで松陰は堂々と自分の意見を述べました。
理路整然とした松陰の考え方は、幕府の役人たちをびっくりさせるほどのものでした。
しかし、幕府にあっては危険な考え方であるとの結論がだされました。
やがて言い渡しがありましたが、予想どおり極刑でした。

松陰は、身の回りの整理を行い、自己の命が断たれるその日まで、
残されたものへ宛てた最後の文章を書きました。
それが、留魂録です
。留魂とは魂を留める、肉体はなくとも魂を残して、この国のために、
力を尽くしたいとの強い願いからでたものです。

 再び師道について

昭和五十五年四月一日、縁あって京華学園の教師として奉職することになりました。
二十五歳の春でした。教師になろうと志したのが二十三歳、一年をかけて勉強を続け、
ようやく教師として教壇に立つことになりました。
そして教壇に立つ半年ほど前、吉田松陰の言う「師道」について今一度考えました。
はたして自分は教壇に立ち、人に教えるにふさわしい人間なのだろうかと、自問自答しました。
本当に教えるべきものをもっているのだろうか、真剣に考えました。
ところが考えれば考えるほど、自分の未熟さばかりが目についてきて、
不安感でいっぱいになってしまったのです。
学生時代は並み以上に勉強してきたつもりでしたので、
それなりの自信がなければ教師になろうなどとは思いません。
やはり自信があったからこそ選んだ道です。
しかしそれでも不安です。そしてこの不安を抱えたまま教壇に立つ日を迎えたのです。
「師道」の重さを感じながらの出発でした。

こうして、二十年が経ち、現在にあっても「真に教うべきことありて師となり」が
自己の課題になっています。自分にとって「教うべきこと」は何か。
教師としてできることは何か。ようやく少しずつではありますが、
見えてきたような気がしています。
生徒とともに学ぶこと、戦いつづけること。
吉田松陰とはとても比較できない自分の人生ですが、
戦う以上は、あくまで勝利をめざして前進したいと考えています。(完)

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年6月27日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ③~

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

ところでこれまでの内容だけでも吉田松陰が立派な教育者であったことが理解できるでしょうが、
松陰の教育者としての真骨頂は、松下村塾以前の野山獄にあったと考えています。
野山獄とは、今日でいえば刑務所のような所で、いわゆる罪人たちがいるところです。
なぜ松陰が罪人として野山獄にいたかというと、
国禁を犯して海外に遊学(今でいう留学)したいと考え実行したからでした。
遊学したいとの理由は、いうまでもなく、外国に負けない立派な国にするためには、
まずは外国の良いところを学ばなければならないと考えたからです。
江戸時代は鎖国が国の決まりですから、これを破ることは重罪です。
幕末の歴史に疎い人でも、ペリーの来航を知らない人はいないでしょう。
米合衆国の代表として、日本に開国をせまった人です。
松陰は、ペリーが二度目に来航した際、伊豆下田沖に停泊していた軍艦に乗り込み、
米合衆国への渡航をお願いしたのです。残念ながらその願いは聞き入れられず、
送り返されてしまいました。遊学の志を断たれた松陰は、その足で自首し、
しばらくは江戸の獄にいましたが、やがて国元に返されることになり、
萩の野山獄に入れられたのです。
はじめの歌は、松陰が江戸に護送される途中に詠んだものです。
烈々とした気持ちのほとばしりからでた、やむにやまれぬ心のうちをのべたものです。

普通の人であれば、世間から離され、しかも罪人として獄につながれることは、
生きる希望を失うことであります。松陰は、逆に静かに学問にうちこめるよい機会と考えたのです。
できるかぎりたくさんの本を読もうと決意した松陰は、兄や友人にお願いして、
読みたい本を届けてもらいました。米国へ渡航できず、ペリーを説得できなかったのは、
自分の学問が足らないせいだと考えていた松陰は、
これまで以上に広い範囲にわたって学ぼうとしていたのです。
その範囲は、これまでの兵学を中心としたものだけでなく、
歴史、地理、伝記、医学、政治、道徳などにおよびました。
松陰の野山獄での生活は、およそ一年と二ヶ月。この間に読んだ本の数は、
なんと六百二十冊、一ヶ月平均では約四十冊の本を読んだことになります。
しかし、これでも、兄や友人にあてた手紙には、自分の学問の浅いことを嘆き、
悔しく、涙することが多いと伝えているのです。なんという学問への情熱でしょう。
松陰の読書は、ただ読むだけではありません。
大切と感じたところは、必ず書き留めておき、その意味することろを考えました。
昔の人の考えを学びながら、現在の時代に生きる自分にとって生かせる事は何か、
常に考えながら読み続けていきました。現実から離れて真の学問はないと考えていたのです。

 至誠にして動かざるもの、未だ之れあらざるなり



この野山獄には、多くの罪人たちがいました。
しかもほとんどのものが、この獄から将来出られる見込みがなく、
誰もが自暴自棄になり、獄中の生活をしていたのでした。
松陰は獄中の人々に、いかなる場にあっても希望を失ってはならない、
ともに学問に励もうではないか、と訴え続けたのです。
「至誠にして動かざるもの、未だ之れあらざるなり」。
この言葉の意味は、人はまごころをもってすれば感動しないものはいないということです。
いかに獄中であっても、罪人であったとしても、
まごころを持って接してゆけば必ず分かってくれるとの信念を示した言葉です。
そうは言っても、初めのうちは誰も耳を貸そうとしませんでした。
それはそうでしょう。出られる見込みのない獄で、自分を見失わずに生きることなど、
そう簡単にできることではありません。
しかし松陰のあまりの熱心さに、やがて心動かされるようになり、
ともに学ぶようになったのでした。
松陰は、光り輝く存在として、獄中の人々を生き返らせたのです。見事でした。
また、獄中の勉強会は、松陰の講義にとどまらず、
習字、絵画、俳句などについて得意とするものが教えることになり、
松陰も一緒に学びました。
(次回に続く)

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年6月20日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ②~

吉田松陰は、山口県萩(長州藩)の出身です。
明治時代の伊藤博文や幕末の奇兵隊を指揮した高杉晋作を知らない人はいないでしょう。
実は、伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎は、
吉田松陰が安政三年から四年にかけて松下村塾という私塾(今で言えば私立高校)で
教えていたときの生徒たちだったです。
この松下村塾には、幕末から明治の激動の時代を生きたたくさんの英傑たちが学んでいました。
誤解がないように断っておきたいことは、はじめから英傑と呼ばれるような人たちが
集まってきたのではないということです。
彼らは悪く言えば落ちこぼれのような存在、
当時では鼻摘み状態であった者もたくさんいたのです。
しかも士農工商という厳しい身分の違いがある時代でもありました。
しかし吉田松陰は、だれでも分け隔てなく公平に教育者として対応し、
やがて日本の中核をなすような、数多くの人材を育てていったのです。


ここで簡単に、吉田松陰の生い立ちについてふれておきましょう。
吉田という姓を名乗っていますが、もともとは杉百合之助の次男として生まれ、
幼い頃から、父から「大学」「論語」「孟子」などを教えられて育ちました。
なかでも「神国由来」という日本の成り立ちについては好んで朗読したということです。
六歳になると吉田家の養子となり、兵学という武士としての心得や
戦い方を教える先生となるための学問に励みました。
二十歳を迎える頃には、日本全国を旅行して歩き、多くの先生について学びました。
この頃の日本の周辺では、ロシアや他の外国船が出没しており、
松陰にとって長州藩だけでなく、日本全体をどうしたら守ることができるのかが
課題となっていました。そこへペリーひきいる米国の艦隊が来たのです。
日本中が大騒ぎとなってしまいました。松陰も黙ったままではいられません。
即行動にでました。ただこれが重大な問題となったのですが、
これについては後で詳しく述べましょう。
これから後、しばらく経ってから松下村塾の先生になります。

「松下陋(ろう)村(そん)雖(いえど)も誓って神国の幹たらん」

これは吉田松陰が松下村塾の目標を的確に言い表している言葉です。
松下村塾は、世間ではだれも知ることのない、小さな無名の塾ではあるけれども、
必ず神の国であるわが国を背負って立つ人材を育てようとの覚悟がこめられています。

松下村塾の跡は、現在、松陰神社として残っており、だれでも見学できるように保存されています。
行ってみるとだれもが驚くほど簡素なつくりで、
とても明治の英傑たちを輩出したとは思えない粗末な建物です。
ただこの松下村塾から、まぎれもなく日本を背負って立つ人材が生み出されたのです。

こうした事実を、いたずらに過大評価することは戒めなければなりませんが、
現代に生きる私たちが、吉田松陰から真剣に学ぶべきものは、
一にも二にも、志であり、情熱であります。
現実を変える力は、志や情熱の有無にこそあるのです。
何事にあっても、ことを成就するには、それなりの環境の整備が必要です。
ただ問題は、環境の充実がなくては何事もなしえないかのように振る舞うことほど、
人間としてもっとも恥ずかしいことはありません。

松下村塾での教育は、志や情熱によって支えられ、
口角泡をもとばすほどのすさまじい議論が毎日のように行われていました。
ときには意見の食い違いから、喧嘩になることもあったにちがいありません。
なんと乱暴な人たちの集まりなのだろうかと思われるかも知れませんが、
これも真剣さのあらわれでした。しかし議論だけではありませんでした。
先生と塾生がともに汗をながし、田畑を耕しながら、自然にふれあいながら、
ともに学び前進しようという謙虚な姿勢の中で地道に行われていたのです。

「机上の空論、書生の好むところ 烈士の恥ずるところなり」

松陰は塾生に対し、常にこのように言い続けました。
「机上の空論」厳しい言葉です。議論は大切であるが、
行動がなければ真の議論ではないという意味でしょう。
松陰は塾生たちが議論している内容は、「机上の空論」であり、
それではこの社会を変えることはできないといっているのです。
ここでいう「烈士」とは、社会や国のために、全力で行動する人のことをいいます。
もともとこの言葉は、「新論」という書物に対しての批判の言葉でした。
この当時は多くの国家改革のための書物が出回っていたのですが、
松陰にとっての学問は、実学であり、現実に役立たないものは真の学問と考えていなかったのです。
「誓って神国の幹たらん」という志は、ただの大言壮語ではなく、
日々の着実な実践の積み重ねのなかにあったのです。
(次回につづく)
written by 丸幸生(まほろば教育事業団副理事、京華商業高等学校教諭)

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年5月18日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ①~

これから、10代の皆さんを主な対象として、道標となったり、
生きていく上でのヒントになるようなお話しを、
まほろばのメンバーより行っていきます。

私は教職に就いて二十年、その間、三年生を受け持つ際には、
必ず卒業にあたっての作文を課してきました。
初めは自由題で、原稿用紙三十枚を義務付けて提出してもらいました。
もう十年以上、十枚にしていますが、初めの頃は三十枚でありましたので、
生徒諸君にとってはかなり大変だったようです。
こちらが若かったということもあって気合いが入っていたのでしょう。
勢いにまかせて「三十枚書くぞ」と宣言してしまったものですから、さあ大変です。
みんな悲鳴をあげながら奮闘していました。
不思議なことに誰一人文句も言わずに黙々と原稿用紙を埋めてくれました。
出来上がったものはどれも大作であり、研究論文に近いもの、小説ふうのものと色々でした。
商業高校の生徒たちですから、
多分経済とか将来の商売のことだとかが多くなるのではないかと考えていたのですが、
実際は違っていたのです。生徒諸君の持っている感性は実に豊かでした。
その中になんと八十枚書いてきた生徒がいたのです。女子の生徒でした。
達筆で、内容はすばらしいものでした。
そして、その題こそ「十八年間を振り返って」だったのです。
以来、三年生の卒業にあたっての作文は、自分史とし、希望者のみ他のテーマにしました。

 さて、自分史を書いてどうだったでしょうか。
毎年の感想を読み続けていると、共通して言えることがあります。
それは、自分の十八年間の歴史は、親をはじめ周囲の人々の支えがあったからだと
気がついてくれていることです。
人間は一人では生きてはいけない、多くの人々の生との関連の中で、
人生があることに気づくのです。
もし自分史を書かなければ、親や他の人々の努力を知らないままだったかも知れません。

歴史を学ぶ際に大切にしたいのは、この気づきなのです。
自分史は自己の歴史ですからだれもが愛情をもって書くことでしょう。
この愛情をもって、歴史を担ってきた人々の立場に立って、
できるならばその人の生き方を真剣に学んでほしいのです。

ここに激動の幕末時代を生きた青年の物語を記します。
三年生にとっては、卒業という人生の節目に、
一年生や二年生にとってはこれからの人生の目標を考える上で、
必ずなにかしらの示唆を与えられるものと信じています。
真剣な目で、姿勢で読んでくれることを心から期待します。

師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教うべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。(講孟剳記)

中高校生の君たちにとっては、やや難しい内容かもしれません。
やさしく言い換えれば、
「先生のあるべき姿を、今の世で確立しようとするならば、まずは安易に、人に教える先生になってはいけない。また簡単に考えて人を先生としてはいけない。必ず、本当に教えるべきことがあって先生となり、本当に学ぶべきことがあって先生とすべきである。」
という意味です。

ここにあげた「師道」すなわち先生としてのあるべき姿は、
幕末の激動の時代に生きた吉田松陰という先生が言われた言葉です。

大学生の頃に、有志を募り日本の歴史を学んでいた私が、
多くの時間をかけて勉強した人物のなかに吉田松陰がいました。
勉強したての頃は、人物研究の一人として考えていたにすぎませんでした。
しかし、学ぶうちに次第にその生き方に深く感銘をうけ、影響されるようになっていたのです。
確か大学一年の終わり頃でした。
吉田松陰の物語や文献を読み進むうちに、とても他人事とは思えないほどになっていたのです。
こうなるともう読んでいるという感覚はありません。
吉田松陰が、私に語りかけ訴えかけてくるのです。
ときには、君は何をしているのだ、そんな生き方で良いのかと
叱られているかのような感覚を持つことさえありました。
不思議でした。歴史上の人物を学んで生き方の影響をうけるなど、めったにあることではありません。
なにしろ今から百五十年も前に生きていた人なのですから。
(次回に続く)
written by 丸幸生(まほろば教育事業団副理事、京華商業高等学校教諭)

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