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2012年7月の記事一覧

中高生の皆さんへ「10代に読みたい物語」

2012年7月30日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ④~

松陰が野山獄で講義した内容は、中国の古典で有名な孟子についてです。
孟子は性善説を説いたのですが、松陰はこの獄中にいる人々も
みな生まれ乍らにして善であることを熱をこめて話しました。
そして野山獄の罪人だけでなく、監視人さえもが、松陰の講義に感動し、
いつしか「松陰先生」と呼ぶように変わっていったのです。
野山獄での講義は一年あまり続き、その後、獄からだされてからも、
松下村塾において続けられていきました。塾にあっては、塾生だけではなく、
松陰の父も母も兄弟もみなで聞くようになっていました。
このときの講義の内容は講孟剳記としてまとめられています。

凡(およ)そ生まれて人たらば、よろしく人の
禽獣(きんじゅう)に異なる所以(ゆえん)を知るべし

これは「士規七則」の一節で、松陰のいとこである玉木彦介のために書いたものです。
彦介はいとこではありますが、松陰の生徒として松下村塾で学んでいたのです。
意味するところは、人間としてこの世に生を受けたのではあれば、
人間が他の動物と違う理由を知らなければいけないということです。
当然といえば当然のことなのに、なぜこういう事を彦介に言ったのでしょうか。
それは若い学徒は、ややもすれば日常の生活に流されがちになったり、
学問が疎かになる可能性があることをいったのではないでしょうか。

かなり厳しい言葉ですが、これも松陰が獄中から送ったものです。
自分の身が不自由であっても、塾生を励ますためには、労苦を惜しまず、
全力で若き学徒に対しています。松陰にとって、妥協という文字はないようです。

もし松陰が今の世に生きていたら、若者たちをみてどう思うでしょうか。
染めた髪、流行の服装、言葉遣いの乱暴さ、これを自分たちの個性と主張する若者たち。
小学生、中学生による事件の増加。きりがないほど頻発する事件の山。
自分勝手やエゴイズムの氾濫。若者は大人の鏡とすれば、
大人の世界がしっかりしていないからだと考えることはできます。
それにしても、人間の住む世の中には見えないのではないでしょうか。

見える時代は絶望であっても、それでも、松陰は若者に言い続けるでしょう。
君たちこそ、これからの時代の主役だと。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(留魂録)

松陰は松下村塾で教えるだけでなく、国内を遊学している塾生に対して、
幾度となく手紙を書いています。その内容は、次第に、
国家のあり方におよぶようになっていきました。
しかしこれが、幕府の知るところとなり、再び危険人物として捕らえられ、
江戸送りになってしまいました。江戸に送られるということは、
生きて再び萩に戻ることはないということです。
松陰は、いよいよ最後のときがきたかと覚悟をきめつつも、
それでも愛する日本のためには、最後までまごころをもって幕府を説得し、
目覚めさせなければならないと考えていました。驚くべき信念です。

明日が江戸へ向けて出発という前夜、特別のはからいで家に帰ることができました。
父も母も、江戸への出発がどんな意味をもっているか知っています。
それでも家族中で、松陰を励まし、翌朝送りだしたのです。
江戸に着くと、すぐに取り調べが始まりました。
そこで松陰は堂々と自分の意見を述べました。
理路整然とした松陰の考え方は、幕府の役人たちをびっくりさせるほどのものでした。
しかし、幕府にあっては危険な考え方であるとの結論がだされました。
やがて言い渡しがありましたが、予想どおり極刑でした。

松陰は、身の回りの整理を行い、自己の命が断たれるその日まで、
残されたものへ宛てた最後の文章を書きました。
それが、留魂録です
。留魂とは魂を留める、肉体はなくとも魂を残して、この国のために、
力を尽くしたいとの強い願いからでたものです。

 再び師道について

昭和五十五年四月一日、縁あって京華学園の教師として奉職することになりました。
二十五歳の春でした。教師になろうと志したのが二十三歳、一年をかけて勉強を続け、
ようやく教師として教壇に立つことになりました。
そして教壇に立つ半年ほど前、吉田松陰の言う「師道」について今一度考えました。
はたして自分は教壇に立ち、人に教えるにふさわしい人間なのだろうかと、自問自答しました。
本当に教えるべきものをもっているのだろうか、真剣に考えました。
ところが考えれば考えるほど、自分の未熟さばかりが目についてきて、
不安感でいっぱいになってしまったのです。
学生時代は並み以上に勉強してきたつもりでしたので、
それなりの自信がなければ教師になろうなどとは思いません。
やはり自信があったからこそ選んだ道です。
しかしそれでも不安です。そしてこの不安を抱えたまま教壇に立つ日を迎えたのです。
「師道」の重さを感じながらの出発でした。

こうして、二十年が経ち、現在にあっても「真に教うべきことありて師となり」が
自己の課題になっています。自分にとって「教うべきこと」は何か。
教師としてできることは何か。ようやく少しずつではありますが、
見えてきたような気がしています。
生徒とともに学ぶこと、戦いつづけること。
吉田松陰とはとても比較できない自分の人生ですが、
戦う以上は、あくまで勝利をめざして前進したいと考えています。(完)

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