2013年8月7日
家庭の歳時記
「お盆迎え」
8月の声を聞くと、なぜかそわそわしてきます。
それは、旧暦の8月13~15日に帰ってこられるご先祖様のお盆迎えの準備が、8月に入るとはじまるからです。
亡くなった姑が「庭の草がぼうぼうだと、ご先祖様が帰ってこられない」と、よく言って草を抜いていました。先祖を迎える心構えを教えてくれていたのだと思います。
庭がきれいになると、8月10日までに仏壇、仏具、遺影などを清め、11日に迎え堤燈に灯が点ります。
盆棚をしつらえ、季節の果物やそうめん、お菓子などを蓮の葉の上に乗せ供えます。
お供えのござの上には、きゅうりとなすで作った馬と牛を置きます。
これは、浄土から帰ってこられるときは馬に乗って早く、浄土に戻られる時は、牛に乗ってゆっくりとという気持を表しています。
そして、ほうずきの実を飾り明かり取りにします。
13日になるといよいよご先祖様がお帰りです。
西方浄土からの旅で疲れておられるので、最初のお供えは、迎え団子と酢の物です。
中日(14日)はご先祖が好きだったものや、季節の精進料理を供えます。
そして家族も同じものをいただきます。
15日は夕食にそうめんを供え、送りそうめんとします。
すべてが終わると、お供えや飾りを解きます。
そのときは、本当に浄土に帰ってしまわれたという、寂しい気持ちになります。不思議ですね。
お供えの品物やその方法は、宗派や地方によりさまざまですが、毎年毎年同じことを繰り返し、それが代々引き継がれると、わが家の伝統になります。
そして、それを経験する子供たちが、本当にご先祖様がいらっしゃると感じつつ、3日間を過ごすことがとても大切なことだと思います。
決して大げさなことではなく、亡くなった先祖と生きている自分達とのつながりを実感することのできる大切な行事です。
2013年8月7日
家庭の歳時記 「盆踊り」「花火大会」そして「東京スカイツリー」
家庭の歳時記
「盆踊り」「花火大会」そして「東京スカイツリー」
夏休みに入ると、近くの神社などで行われている「盆踊り」の太鼓の音が聞こえてきます。
また、遠くで上がる花火大会の音も聞こえてきますね。
ああ夏だなとわが家にいながにして、しばし暑さを忘れて夏を感じてしまいます。
「盆踊り」や「打ち上げ花火」はお盆で帰ってこられる、ご先祖様や諸霊を慰めるという意味が込められています。
先日、テレビで「長岡花火大会」のようすを中継していて、そのすばらしさにみとれてしまいました。
この「長岡花火大会」は、戦争が終わってまもなくに始まったそうです。
戦没者の御霊を慰めようと。
そして中越地震で亡くなられた多くの御霊を慰めるとともに、復興のために応援をいただいたことへの感謝の思いもこめられているそうです。
「鎮魂」「復興」「感謝」がこの花火大会のテーマだと伝えていました。
ご存知でしょうか、実はあの「東京スカイツリー」にも「鎮魂」の思いが込められていたのです。
スカイツリーのデザイン監修をされた、澄川喜一氏の言葉を引用させて頂きます。
「前略 スカイツリーの設計者は、(法隆寺五重塔の)心柱構造を取り入れるとともに、日本の美しさの原点である「そり」(凹状)と「むくり」(凸状)を取り入れたすばらしい設計をされました。 中略 五重塔は卒塔婆で、仏舎利を納めた祈りの塔です。現在、スカイツリーが立っているあたりは、東京大空襲のときに大勢の人々が亡くなりました。スカイツリーはその鎮魂の塔のような気もします。また、昨年の3月11日には東日本大震災がありました。日本が復興しなければいけない、元気を出そうぜということで神様が誘導してくれたのではないかとさえ思います。 後略」
(東京新聞ファーラムの基調講演より)
古代の知恵と現代の最新鋭の技術が融合され、そこに日本人の「こころ」が込められていたとは、本当に感動しました。
2013年7月3日
■復興と式年遷宮
この日の朝、私は、仮設住宅からおだやかな海を眺めた。
岬の先から差し昇る朝日を受けて、漁師達が、黙々と漁に勤しむ姿が見えた。静かさの中に澄み切った充実感が満ちていた。
いかに震災にうちひしがれても、こつこつと努力を重ねる漁師たちに、
海はふたたび恵みをもたらしてくれる。
まぶしく降り注ぐ朝日に照らされ、かつての美しい雄勝の様がふっと浮かんできた。
屋号の上に、ひるがえる「日の丸」は、天上界の神、天照大御神であると、末永氏は、憧れをこめて教えて下さった。
「天岩戸開き」の神話は、どんなに暗闇にあろうとも、みなの幸せを願い、分を尽くし、助け合っていけば、ふたたび希望という光が蘇ることを教えている。
折々に「岩戸開き」を演じてきた神楽師にとって、神話の物語は、心にくっきり刻まれているに違いない。
そして、それは、折々によみがえり励みとなり智恵となって、浜の人々を導いているのではないかと思う。
今回の体験を通じて、便利で、裕福でありながら、無機的に日々を過ごしがちな都会の生活と、
不便でも、自然に育まれ、神の声に耳を澄ましながら生きる人々のどちらが満ち足りた幸福感を味わっているのだろうかと、改めて問い直している。
二者択一はできないものの、村田参事が、震災を通じて学ぶべきは、本質においては、文明と自然の折り合いをどのようにつけていくかである、
とのご指摘が思い返される。
厳しくも恵み豊かな自然の中で、神楽を通して神々の声に耳を澄ましつつ、たくましく生き抜く雄勝の人々に、私達が支援どころか、逆に多くの気付きを与えて頂いている。
■体験を誓いにして
逆境をはねのけ再び復活す雄勝の漁師我は忘れじ
私自身本当に変わり成長し私の生涯この場と共に
参加した高校生らは、様々な形で、自らの生き方を見つめ問い直した。
多くの小学生を失った大川小学校で黙祷を捧げ、ある学生は、
「これからの被災地の復興へ向けて何かしらの貢献をしていくことが、彼らの無念を晴らすことになり、残された人々を明るくすることが出来ると信じてこれからも頑張っていきたいです」
と述べ、ある学生は、入学した大学で、東北の震災を風化させないために語っていきたいと誓いを固めた。
それぞれの体験に共通するものは、どんなに困難にあっても前を向いて生きようとしている人々の美しさであった。
小さな仮設住宅に、三人も女性を泊めて下さったり、浜から取り立てのホタテや牡蠣をご馳走して下さった青木さん。
いつか家を建てたあかつきには、清水の湧く家の一部屋を十名ほど泊まれる大部屋にして、皆さんの憩いの場にしてもらいたいと、夢を語られた。
これから様々な課題を乗り越えていかなければならない。
そのとき、私達は、皇太子殿下のお言葉のように心を一つにして支えていける者でありたい。
そして、雄勝の人々に気付かせていただいた大切な生き方を、これからの日本に伝え、体現していける自分たちになりたいと心から誓っていった。
おわり
written by 清家和弥
2013年6月26日
■復興の原動力となった祭り、神楽の復活
それにしても、漁は、海の状態いかんによって
危険性と隣り合わせとなる「いのちがけ」の営みである。
海は豊かな恵みを与えてくれるが、時に脅威にもなる。
それゆえ、浜の人達は、祈りの場を大事にしてきた。
震災により、自然の猛威にうちのめされ再建は難しいとも思ったが、
自分を育ててくれたわがふるさとだという意識は離れなかった。
しばらくは意気消沈したが、やがて、漁師達は、海に向き合い、
険しくとも再建への道を選んだ。その上で、励みとなったのが、
全国の支援であった。とりわけ、民間有志の東日本救援隊は、
頻繁に足を運び共に歩んできた。
そして、祈りの場である地域の祭りが、昨年五月四日ようやく復活した。
その時の様子は、映画「雄勝―法印神楽の復興」(日本ユネスコ協会連盟、監督 手塚 眞)に収録されいる。
離散していた若い家族もこの日ばかりは、ふるさとに戻ってきて、
たくさんの人が集まって、にぎにぎしく祭りが催された。
救援隊の若手が担ぐ北野天満宮の御輿が浜を練り歩き、
手作りの出店もあり、子供達もはしゃぎ楽しんだ。
祭りのメイン行事が、奉納される神楽であることはいうまでもない。
浜辺に作られた舞台の上で、次々に、力強くも心あたたまる神楽が行われ、
浜の人々は魅了され、心を一つにしていった。
子供達は舞台袖からじっと舞いを見つめて離れようとしなかった。
祖先より受け継がれた祭り――人と自然と神々がともに生きる
美しい浜の伝統がよみがえった。
立浜養殖組合長の末永千一郎さんは、膝を痛めながら、舞台に立ち、
最後までご自身の神楽を舞いきった。
終了後、息を切らしながら、この祭りにより復興が勢いづけばと
手応えを語った。
■神々とともに生きる
二日目の午後、私達は、末永千一郎氏宅を訪れた。
(写真左端が末永氏)
改めて震災直後から神楽復活への経緯や思いなど感慨深いお話しをして下さった。
友の会「呉竹」のメンバーは、
「神楽を復興することに対しての強い思いがよく伝わってきました。ビデオで見ていると、ケガをしておられたにもかかわらず、神楽を奉納されているのが印象に残っていて、祭りが復活したのが、よほど嬉しかったのだろうと思いました」
「神楽の話を聞き、被災地の大変な状況下で、伝統を守る大変さや苦労、祭りが持つ大きな力というものを感じました」
「僕のふるさと西宮と雄勝町は神様を大切にしているという共通点があることを発見しました」
等の感想を述べた。いずれも、祭りがもつ力を実感し、
また、自分を形成してきた幼少期の体験の中に同じものがあることを再発見している。
末永氏に、思い切って、神楽のセリフをお聞かせ下さいとお願いした。
すると分厚い台詞を取り出してきて、二十八もある演目を紹介され、
場面場面を軽やかな口調で語り始めた。
しだいに熱がこもり、私達は、神々の物語に引き込まれていった。
中でも天岩戸開き、スサノオの物語は圧巻である。
ご存知のとおり、スサノオノミコトは高天原で大暴れしたあげく
追放されてしまう。償いの旅に疲れ果てたミコトは、
裕福そうな明るい家がみえたため、戸をたたいて一夜の宿を求めたが
断られてしまう。無念な思いでさまよい歩くと今度は、薄暗く、
貧しそうな民家があった。ミコトは、戸をたたき一夜の宿を求めると、
家主は、あたたかくむかえいれ、粟の食事と粟殻の布団でもてなしたという。その家主を蘇民という。
ミコトは、蘇民の情け深さに心を打たれ、その時、心から人の道を悟った。
その思いはやがて娘を救うため八岐大蛇退治という勇敢な行為につながり、
やがて幸せな家庭を築くに至る。
末永氏は、神話は、人の道、教えであるとし、若い時は、
時として行きすぎた行為や過ちを犯すこともあるが、
一をみて百を断じてはいけない、信じて向き合い待つことが大切だと語られた。
仮設住宅や家々の玄関に「蘇民将来子孫門戸」という紙の札を掲げているのを、
私達は不思議に見ていたが、実は、この伝承の蘇民の子孫という心構えをもって、
訪れた人をあたたかく迎え入れるためだそうである。
「雄勝の人々にとって、神話の物語は生活の中に息づいているのですね」
との質問に対し、末永氏は、額に飾った船の写真を見上げ、
上から二番目が持ち主の屋号の旗で、その上が日の丸、
そして、船の中には、必ず、船魂という神様が祭られていると教えて下さった。
漁師にとって、漁は神とともに為され、神のご加護のもと営まれているということであろう。
つづく
written by 清家和弥
2013年6月13日
■ワカメの収穫を通じて人々とふれあう
私達は、午前中は、ワカメの収穫作業に携わった。
また、特別に、ブイに持ち主の屋号を入れる作業も行わせて頂いた。
三月はワカメの収穫で忙しい。
漁師たちは、三時、四時には海に出て、早朝には水揚げする。
収穫した大量のワカメは、次々にボイルで茹でられ、塩でもみ、
しん抜きをして、封詰めを行う。
高校生は
「漁師の方がカゴを軽々持ち上げていたので、私も持てるかな、と思ったけど、予想以上に重くて驚きました。…こんなにも大変な重労働を毎日されているのだと思い、漁師の方々のおかげでワカメが食べられていることに感謝しなければならないと思った」
「あるご一家のワカメ漁の手伝いをさせて頂きました。ご一家は親戚など一族総出で漁をしていました。ご一家の家庭の温かさを感じました」
と感想を述べた。
このように漁は大変な重労働であるが、それゆえに、浜の人々は家族のように協力しあう。
とりわけ、震災後は、結束力が強まったという。
震災後、学校が閉鎖し、雄勝を離れた子や孫達が手伝いに駆けつけているのも嬉しいことだったという。
厳しい自然に向き合い生きることは苦労もあるが、やりがい、一体感がある。
若い人が漁の良さを見つけ、いつか浜に戻ってくることを浜の人々は願っている。
つづく
written by 清家和弥
2013年5月24日
■震災と神社の果たす役割
東北入りした私達は、はじめに、「震災と神社の果たす役割」について学ぶため、
宮城県神社庁を訪れ、村田守広参事にお話を伺った。
宮城県は、百三十一社の神社が流失、全壊、半壊し、
また、神社を支える地域の人々も被災しているため、
それらの神社の多くは、再建の目途が立っていない。そのような中で、
神社本庁の支援を基軸に、支援者をつなぎ、すみやかな再建に尽力されたのが村田参事である。
ありがたくも、伊勢神宮よりご用材が無償で提供されることになり、
これまで九棟の神社が再建されている。
村田参事には、そのことも含めて三点についてお話し頂いた。
一つは、伊勢神宮のご用材を用い、お伊勢さんの神威を頂いて神社が再建されたことの意義の大きさである。
二つ目は、神社は、地域の心の拠り所であり、コミュニティーの核であり、
何よりも神社の再建が人々の元気につながることである。
三つめは、想定外という言葉が多く語られたが、そもそも自然は人智を超えた存在であり、
自然への畏敬の念が薄れたことが問題であること。
文明と自然のバランスをどのようにつけて行くのかを、
今回の震災を通じて考えなければならないということである。
村田参事の話を聞いて高校生は
「神社の存在が、地域のコミュニティの中でとても重要な役割を果たしていたんだと思いました。
町を復興していく中で、心の拠り所となる祈りの場があるということは
被災者の方々にとってどれほど支えになっただろうと思います」と感想を述べた。
■お伊勢さんの力を頂いだいた新山神社
午後、私達は、石巻市街地を視察し、雄勝町に移動、中心部にある新山神社を訪れた。
実は、伊勢神宮のご用材を使って再建された神社の第一号が、この新山神社であった。
訪れた雄勝地区は、雄勝湾の一番奥に位置する浜の町で、
津波によって流され一面更地と化した。その中に、規模は小さくとも、
檜の香も香しく若々しい輝きを帯びた新山神社は再建された。
「こんな立派なものができるとは」と涙ぐむ人もいた。
何しろ、伊勢神宮のご神域から切り出した木材を使うので、地元の人は大変よろこんだそうだ。
竣工奉告祭では、神楽も奉納され、三百名の人々が集まり、再会を喜びあった。
ご尽力された小田宮司は、お伊勢さんの力を頂いて、地域がよみがえることが、
何よりも嬉しく、やりがいも湧いてきたと語られた。
村田参事は、神社再建に、伊勢神宮のご用材が使われ、
大神のご神威をいただくことの意義深さについて繰り返し述べられたが、
二十年に一度の式年遷宮の年、東北の真の復興は、
日本のいのちのよみがえりの中になされていくことを強く信じておられることを改めて感じた。
次回に続く
(written by 清家和弥)
2013年5月16日
復興を支えた神楽の心に迫る奉仕活動
―復興の原動力となった
「雄勝法印神楽」―
皇后陛下御歌 復興(平成二十四年)
今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に
この御歌は、地震と津波により失われた人命、家、周囲の自然等、
その全てを面影として心に抱きつつ、
今一度復興に向け立ち上がろうとしている北国の人々に
思いを寄せてお詠みになったものである。
去る三月二十九~三十一日、二度目の支援活動として訪れた
宮城県石巻市雄勝町は、まさに御歌に詠まれた、困難に直面しつつも、
たちあがりゆく村の一つである。
そして、その復興の原動力となったのが、神社、祭りの再興であり、
雄勝法印神楽の復活であった。
私たち高校生友の会呉竹は、ワカメの収穫作業の支援とともに、
復興を支える神楽の心とはどのようなものか、自らの目で見て感じ、
その中で、復興支援のあり方を見つめていきたいと考え、
高校生ら九名で雄勝立浜地区を訪れた。
雄勝町法印神楽は、六百年の昔、羽黒修験者によりこの地にもたらされ、
現在、国の無形文化財として浜の人々に受け継がれている。
二十八の演目からなる古事記、日本書紀の国生み神話等の物語の中から、
いくつかを選び、村の神楽師たちによって舞台が演じられる。
優美にして勇壮、激しい戦いの場面もあれば、
その年に生まれた赤子を抱き、舞う場面もある。
時には、観客が引きつられて舞台にあがり、神々と舞い踊る場面もある。
見る人も演じる人も一つに溶け込んで、土地とともに生きる喜びを共にし、
人々の絆をむすんでいくのが雄勝法印神楽と言えるだろう。
しかし、東日本大震災は、すべてを流し去ってしまった。
養殖場も家々も根こそぎ流され、神楽のお面や装束など一切の用具が
流された。四千三百人いた人口は千五百人まで減少し、
町の復興は目途が立たず、生活は元に戻らない。
それでも人々は、神楽や祭りの復活を望んだ。
全国からの支援もあり、十年は復活できない思われていた神楽が、
半年後、鎌倉宮での復興支援公演として蘇った。
■皇太子同妃両殿下 雄勝法印神楽をご鑑賞
さて、「雄勝法印神楽」は、今年二月、国立劇場で復興支援の公演が行われ、
皇太子同妃両殿下には行啓遊ばされ、三時間にわたる公演を
ご観賞になられた。私は偶然にもこの舞台を鑑賞する光栄に巡り合わせ、
「山幸、海幸」など皇室の遠つ御親の生命力あふれる舞台に感銘を深くし、
次代の子供たちにぜひとも伝えていきたいと思った次第である。
皇太子殿下は、公演後、四、五十分にわたり、一人一人に労いと励ましの
お言葉をかけられ、保存会の方々は、思いもよらぬお心遣いに
感激したそうだ。
皇太子殿下は、その時のお気持ちをお誕生日のご会見で述べられている。
「六百年の歴史を誇り、地域の人々の心のよりどころとなっている伝統芸能を守り、活動していこうとする保存会の人々のすばらしい公演を鑑賞し、震災に立ち向かいながら、伝統を守り続けるひたむきな姿に心を打たれました。引き続き、東北の方々の復興に向けた取組を国民が心を一つにして支えていくことが大切です」
東北の方々のひたむきな姿に心を打たれ、
国民と心一つに支えていこうとされる思いが、
一人一人への心こもるお言葉がけにつながったのではないかと拝察された。
私達は、殿下のお言葉を胸に、手作りの御製のしおりを携えて雄勝を訪れた。
次回へ続く
(written by 清家和弥)
2013年3月2日
家庭の歳時記 3月3日 『ひなまつり』
うれしいひなまつり
サトー・ハチロー 作詞
河村 光陽 作曲
1 あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛たいこ きょうはたのしい ひなまつり
2 おだいりさまと おひなさま ふたりならんで すましがお
およめにいらした ねえさまに よくにた官女の 白いかお
3 金のびょうぶに うつる日を かすかにゆする はるの風
すこし白酒 めされたか 赤いおかおの 右大臣
4 着物をきかえて おびしめて 今日はわたしも 晴れ姿
春のやよいの このよき日 なによりうれしい ひなまつり
一人娘のいる我が家では、節分をすぎて陽気の良い日をえらびおひな様を飾ります。
娘が成長したいまでも変わりなく行う楽しい年中行事です。
おひな様がお出ましになると家中が華やぎます。
3月3日には、平安時代や室町時代にはもう草餅や白酒をお供えする風習があったようです。
また、この日には゛祓えの日゛という側面もあり、自ら川にはいって身を浄めるかわりに
人形(ひとがた)などを撫でて穢れを移し、川に流すということをやっていたようです。
いまでも鳥取には「流しひな」が行われているところがあります。
それがやがて、人形が美しく飾られひな遊びの道具となり、
江戸時代からは、ひな壇に飾ってながめるものとなっていきます。
いずれにしても、鬼退治を連想させる「桃の実」や薬として使われていた
「よもぎ餅」や魔除けの「橘の黄色い実」など縁起の良いものを飾って、
幼い子らのすこやかな成長と幸福を願ったのだと思います。
また、ひな壇の両脇には、「左近桜」と「右近橘」が飾られますが、
これは京都御所の紫宸殿の様子をそのまま模したものであり、
ひなまつりを通して手の届かない御所の奥におわします天皇さまをお偲びするお祭りだったものと思われます。
子の幸せを祈るこころは今もむかしも同じです。「ひなまつり」に寄せた和歌を紹介します。
神 雛
・遅ればせ今年も吾子の立雛を出したてまつる春のうらら
・十七(とをまりなな)このたびの春はしみじみと清らけき御面祈り見つむる
・つつがなく生ひ立ちにける十七年雛(ひいな)の神に感謝し奉る
心にひびくとてもいい和歌ですね。あたたかい家庭の様子が伝わってきます。
まだまだ寒い日がつづきますが、ひなまつりが過ぎると、
桃や梅の花が一斉に咲きはじめ春の訪れをつげてくれます。
春を待つ日々がこころを豊かにしてくれるように思えます。
どうぞご自愛ください。
written by 椛島
2013年2月11日
家庭の歳時記 2月11日 建国記念の日
拝啓 立春の候、今日関東では春一番が吹くと天気予報がいっていました。先日は雪が降りましたが、温暖の繰り返しで春がやってくるのですね。
今日のテーマは『建国記念の日』です。明治6年に「紀元節」として2月11日が建国をしのび祝う日として決められました。明治26年には小学唱歌「紀元節」が作られました。
『紀元節』 高崎正風作詞・伊澤修二作曲
雲に聳ゆる高千穂の高根颪(おろし)に草も木も
靡き伏しけん大御代を仰ぐ今日こそ楽しけれ
海原為せる埴安の池の面より尚広き
恵みの波に浴みし世を仰ぐ今日こそ楽しけれ
天津日嗣(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)千代万代に動き無き
基定めし其の上(かみ)を仰ぐ今日こそ楽しけれ
空に輝く日の本の萬の国に類無き
国の御柱立てし世を仰ぐ今日こそ楽しけれ
国の分だけ「建国記念日」はあります。神話にその起源をもつ国。先住民と闘って勝ち取った国。度重なる革命によって出来上がった国。長い戦闘や内戦によって絶えず国境線を変えざるを得ない国。などなど。
日本は今年2673年目の「建国記念日」を迎えます。2673年前、大和の橿原の地で神武天皇がご即位された日が、建国の起源です。
それ以来、同じ日本の土地で、同じ言葉を使い、建国の神話を持ち、豊かな自然の中で感性を共有し、そして何より初代の神武天皇以来一系の天皇陛下という中心者を仰ぎながら歴史をつむいできました。それが日本人だといえるかもしれません。
以前、テレビで黒柳徹子さんがアフリカの人の言葉を紹介していました。アフリカは500年以上欧米によって植民地化され、奴隷という運命の中で、アフリカの歴史が辿れなくなった。思い出せないのですと。思い出す術が失われてしまったんだと。何という悲しい言葉でしょうか。人はただ生きているだけではなく、国としての共通の思い出やルーツを知らず知らずのうちに求めているのかもしれません。
私たちは先祖が守ってきて下さったように、次の世代にきちんと日本のルーツや共通の思い出を伝えていかなくてはなりません。先祖への感謝の気持を忘れずに。門口に国旗を揚げて、建国のお祝いをいたしましょう。
2013年2月2日
家庭の歳時記 2月3日 「節分」 2月4日「立春」
拝啓 立春の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。今日は節分と立春についてお話します。
石ばしる垂水の上のさわらびの萌えいづる春となりにけるかも
(志貴皇子の御歌・万葉集)
私の大好きな万葉の和歌です。まだあたりには冬の寒気が残っていながらも、その中に早蕨が萌え出でる様子に春の気配を感じるよろこびが満ち満ちています。千年をこえてもその情景がうかび共感できることはうれしいです。
長くて寒い冬をこえ、春に向うよろこびは実感しますが、古代であれば尚更春を待ちわびるこころはひとしおだったと想像します。
「24節気」というものがあります。暦とは別に一年を24の節に分け、季節の移ろいを知り農事の段取りをする目安としました。その最初が「立春」です。むかしはその日を正月とする考えもありました。1年のはじめの「立春」を迎える前日を「節分」とし、冬の悪気をはらい新しい年の陽気を引き入れ豊年をむかえる行事がされます。
冬の悪気をはらう行事が「鬼やらい」とよばれ、行われはじめたのは文武天皇の慶雲3年(706)。疫病の流行により百姓が多くなったためにおこなわれた。その後文徳天皇(850代)のころより民間でも広まったようです。「鬼やらい」とは鬼を桃の弓や葦の矢、矛と楯で追いやる行事だったそうです。
いまのように豆まきとなったのは室町時代からといわれています。
今でも節分の夜に鬼の嫌がる葉を焼き家中にいぶかせたり、鬼が嫌うという鰯の頭を柊の枝にさし玄関にはりつける風習は残っています。
わが家では、そこまではしませんが、どんなに遅くなっても主人の帰りを待ち、家中の窓を開け「鬼は外、福は内」と豆をまき、歳の分だけ豆をいただきます。だんだん歳が増えると全部たべるのが大変です。
そして「立春」をむかえ、午前中に「お雛様」をささやかながら飾り3月3日の雛祭りまで楽しみます。