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2012年6月27日

10代を生きる君たちへ~幕末の志士・吉田松陰に学ぶ③~

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

ところでこれまでの内容だけでも吉田松陰が立派な教育者であったことが理解できるでしょうが、
松陰の教育者としての真骨頂は、松下村塾以前の野山獄にあったと考えています。
野山獄とは、今日でいえば刑務所のような所で、いわゆる罪人たちがいるところです。
なぜ松陰が罪人として野山獄にいたかというと、
国禁を犯して海外に遊学(今でいう留学)したいと考え実行したからでした。
遊学したいとの理由は、いうまでもなく、外国に負けない立派な国にするためには、
まずは外国の良いところを学ばなければならないと考えたからです。
江戸時代は鎖国が国の決まりですから、これを破ることは重罪です。
幕末の歴史に疎い人でも、ペリーの来航を知らない人はいないでしょう。
米合衆国の代表として、日本に開国をせまった人です。
松陰は、ペリーが二度目に来航した際、伊豆下田沖に停泊していた軍艦に乗り込み、
米合衆国への渡航をお願いしたのです。残念ながらその願いは聞き入れられず、
送り返されてしまいました。遊学の志を断たれた松陰は、その足で自首し、
しばらくは江戸の獄にいましたが、やがて国元に返されることになり、
萩の野山獄に入れられたのです。
はじめの歌は、松陰が江戸に護送される途中に詠んだものです。
烈々とした気持ちのほとばしりからでた、やむにやまれぬ心のうちをのべたものです。

普通の人であれば、世間から離され、しかも罪人として獄につながれることは、
生きる希望を失うことであります。松陰は、逆に静かに学問にうちこめるよい機会と考えたのです。
できるかぎりたくさんの本を読もうと決意した松陰は、兄や友人にお願いして、
読みたい本を届けてもらいました。米国へ渡航できず、ペリーを説得できなかったのは、
自分の学問が足らないせいだと考えていた松陰は、
これまで以上に広い範囲にわたって学ぼうとしていたのです。
その範囲は、これまでの兵学を中心としたものだけでなく、
歴史、地理、伝記、医学、政治、道徳などにおよびました。
松陰の野山獄での生活は、およそ一年と二ヶ月。この間に読んだ本の数は、
なんと六百二十冊、一ヶ月平均では約四十冊の本を読んだことになります。
しかし、これでも、兄や友人にあてた手紙には、自分の学問の浅いことを嘆き、
悔しく、涙することが多いと伝えているのです。なんという学問への情熱でしょう。
松陰の読書は、ただ読むだけではありません。
大切と感じたところは、必ず書き留めておき、その意味することろを考えました。
昔の人の考えを学びながら、現在の時代に生きる自分にとって生かせる事は何か、
常に考えながら読み続けていきました。現実から離れて真の学問はないと考えていたのです。

 至誠にして動かざるもの、未だ之れあらざるなり



この野山獄には、多くの罪人たちがいました。
しかもほとんどのものが、この獄から将来出られる見込みがなく、
誰もが自暴自棄になり、獄中の生活をしていたのでした。
松陰は獄中の人々に、いかなる場にあっても希望を失ってはならない、
ともに学問に励もうではないか、と訴え続けたのです。
「至誠にして動かざるもの、未だ之れあらざるなり」。
この言葉の意味は、人はまごころをもってすれば感動しないものはいないということです。
いかに獄中であっても、罪人であったとしても、
まごころを持って接してゆけば必ず分かってくれるとの信念を示した言葉です。
そうは言っても、初めのうちは誰も耳を貸そうとしませんでした。
それはそうでしょう。出られる見込みのない獄で、自分を見失わずに生きることなど、
そう簡単にできることではありません。
しかし松陰のあまりの熱心さに、やがて心動かされるようになり、
ともに学ぶようになったのでした。
松陰は、光り輝く存在として、獄中の人々を生き返らせたのです。見事でした。
また、獄中の勉強会は、松陰の講義にとどまらず、
習字、絵画、俳句などについて得意とするものが教えることになり、
松陰も一緒に学びました。
(次回に続く)

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